山口県岩国市横山にあった城。1601年(慶長6年)、吉川広家が築城。関ヶ原の合戦後、吉川家は岩国3万石に削減、移封され岩国城を築城。1615年(元和元年)幕府の一国一城政策により、吉川岩国藩は毛利一族として岩国城は破却された。日本100名城(74番)の一つ。
吉川氏は、毛利両川の一つである毛利元就の次男、吉川元春の代から勢力を伸ばし、関ヶ原の合戦前、吉川広家の代には米子11万石を領する大名となっていた。関ヶ原の合戦では、吉川広家も西軍に属したが、東軍へ内通し、毛利本家の本領安堵を条件に、合戦時の不戦を約束。 果たして、南宮山に陣取った広家は、毛利秀元、長曾我部盛親ら約二万の兵を参戦することを食い止め東軍の勝利に貢献した。
しかし、合戦後、約束は守られず、毛利家は周防、長門の2ケ国に減封。これら一連の行動は広家の独断であったとされており、毛利家から吉川家は長く恨まれることとなる。吉川家も岩国3万石に削減、移封され岩国城を築城。